【連載】パーティ日和/第2回

<毎週土曜日連載>
ライブハウス・サロンキティ
僕の本拠地であるライブハウス、サロンキティについて書こうと思う。
音は最高、ステージも客席も楽屋も更衣室まで整備された、26年間に及ぶ歴代スタッフの想いが詰まったキャパシティ400名のいわゆるライブハウスだ。
とびきり有名なアーティストのワンマンライブに地元バンドの対バンイベント、アイドル、弾き語り、コントやクラブイベント、カラオケ大会まで対応する超ゴキゲンなハコ。
自社イベントも数多く存在し、でっかい野外フェスから週末ド深夜のディープなDJパーティまでなんでもこい、である。
同じ屋根の下にインディーレーベルも存在し、バンドやアイドルをプロデュース。しかもこれまでに、3組ものメジャーアーティストも輩出してきた。
我がサロンキティは、愛媛県松山市という地方都市にありながらそんな実績を持つとてつもないライブハウスなのである。
今自分が店長だということが、まだ少し違和感あるくらいだ。

こんなハコに、若かりし自分が憧れない訳が無いだろう。
ロックアーティストを夢見る10代後半〜20代の僕は、毎月2本も3本もここでライブをこなした。
今日はその頃の話をしよう。
今でこそビルごとサロンキティの持ち物となり1Fにライブハウス、2Fには楽屋、3Fに広い事務所を構え5F、6Fには着席形態のホールまであるのだけど、当時は1F、2Fのみであった。
バンドブーム真っ盛りであり、サロンキティのスケジュールは地元のバンドによって取り合いみたいな状態。
駆け出しの僕はレンタルしようとしても月曜日しか空いてない、みたいな事もあって苦戦を強いられていた。
やっぱり良いライブをするには良いライブを見るべきと客としても足繁く通ったがまだバンドマンがヤンチャなお兄さん達ばかりだった頃であり、当然コワい人も居た。
フロアの隅っこで彫り師がタトゥー入れてたりお客が盛り上がってステージに駆け上がり、バスドラムの穴に首突っ込んで痙攣していたり、酔っ払った奴がトイレで逆さまになっていたりとそれはもう阿鼻叫喚であった。

その頃の僕はのちに「ギターロック」と呼ばれる事になる感じのバンドをやっていたんだけど、周りにほとんどそんなバンドが居ないもんだからヴィジュアル系やパンクロック、ハードコアパンクの方々と一緒にブッキングされることが多かった。
ヴィジュアル系のイベントにブッキングしていただいた日には最前で座り込み口を開けてこっちを見ているバンギャの皆様、「誰この人達」状態だ。
そりゃそうだろう。本当に申し訳ない。
所在ないのはバンドだけではなく、せっかく来てくれた僕らのお客さんもフロアの隅っこで寄る辺なさそうにしている。本当にすまん。
そんな中案外ハードコアやパンクスの人たちにウケたりして戸惑っていたら幸運なことにサロンキティ側にも気に入っていただけて、定期的なブッキングをもらうことが出来るようになった。サクセスストーリーである。
しかし当時のサロンキティはワルかった。
ご挨拶とチケット清算の為に事務所に行くのだけど、重たい鉄の扉はひんやりと冷たく「DROP DEAD TWICE(二回殺す)」と書いてある。
もうダメだ。絶対に死ぬ。
照明室も兼ねていたので薄暗い事務所の奥にめちゃくちゃデカいラスボス社長が鎮座している。
挨拶と清算を済ませ出ようとすると「俺のバンドのライブがあるけん見においでや」とチケットを渡され、言われるがままに見に行くと真っ黒な皮ジャンを着た社長がバット振り回しながらステージに出てきた。
にわかに殺気立つ客席。僕は「ああ、今日死ぬのか」と思った。

何度も死を覚悟した僕であるが、結論から言うと死ななかった。
ワルい人って、言うことはめちゃくちゃだけど気の良い人が多いのである。
いろいろな先輩に仲良くしていただき、そんな空気にも慣れ、僕は数々のステージを踏んだ。
今思い出しても、あの刺激的な日々は自分の人生の分岐点だったと思う。
ヒリヒリする緊張感、そこで試される自分達の音楽。
ライブハウスのステージは、人種も来歴も性別も問わない音楽を愛する者の挑戦の場なのだ。
時は過ぎ、今僕が店長を務めるサロンキティは割と穏やかな空気に満ちている。
先週の話ではないが、みんな人の子なのだ。
相も変わらず多様な音楽を飲み込んで、今日もサロンキティには火が灯る。
皆様の音楽体験が、これからも素敵なものでありますように。
ライブハウス『松山サロンキティ』店長/武花 正太
プロフィール

音楽、アニメ、旅、鉄道、廃墟、階段など、引っ掛かりを覚えた物を節操なく取り込んだボーダーレスなライフスタイルは国内外を問わず広く呆れられている。
自身のバンド「MILDS」では作詞作曲、歌、ギター、ピアノを雰囲気でこなし、さまざまな現場でベースを弾く。
DJとしても活動しており、主な得物はなんとアニソンである。